オフィス森川 行政書士 宅地建物取引 測量設計

072-859-7320受付:9:00~17:00 休業日:日祝

メニューの表示と非表示

尊延寺の歴史と文化

コミュティマップ

図

尊延寺とは

尊延寺とは----尊延寺地区のいまむかし(道案内にあたって)
40万都市・枚方市の東端に位置する氷室。尊延寺地区は古来、その中心を成してきた。市の表玄関である京阪電鉄枚方市駅からみれば、京都府・奈良県境と接する“遠地”であり、現実に道路や下水道などあらゆる都市基盤整備の遅れが目立つ。通勤・通学をはじめ日常生活において、市中心部との比較で大いに利便性に欠ける。住民も等しく思いを同じにしている。ただ、21世紀を生きるうえでのキーワ←ドである「うるおい」や「心の豊かさ」は、生活の利便性と必ずしも軌を一にしない。  氷室地域を少し観点を変えてみれば、まったく異なる像が浮かびあがり、わくわくさえする展望がひらけてくる。この地域ももちろん昔のままでなく、それなりの変貌を遂げてきた。しかし開発のテンポがゆるやかであった分、市城で豊かな緑が最も多く残り、地域住民に限らずいまや全市民にとってもかけがえのない財産である。また、3府県にまたがる関西文化学術研究都市(学研都市)の一部であり、その中心地(京都府精華町)からみれば隣接地にほど近く、その未来は燦然と輝く。そして何よりも  この地域には、古人が営々と刻み築いてきた歴史と文化がある。それを守り、誇りにしている多くの人々がいる。  この農かな緑や歴史・文化に触れたいと昨今、地域外の市民らが訪ねるようになり、 新たなぬくもりに満ちた交流も生まれている。そこで新世紀がスタートしたのを機に、まずは尊延寺区民が里山に囲まれたこの  地の歴史や文化を再認識し、改めて訪れ歩く道案内として、また広く氷室や尊延寺 のすばらしさを見直していただくよすがにと「尊延寺地区歴史・文化コミュニティマッ  プ」を作成した。歩を進める前に、予備知識として尊廷寺の来し方を紹介する。 1.厳島神社本社本殿
創立沿革は明らかでないが、『氷室村郷土誌』にもとは小字惣谷にあったが、いつの頃か現地に移したと記されている。一説に「弘化2年(1845)移し奉りし」という。大正4年(1915)村社に指定。尊廷寺村の氏神で、市杵島姫命を祀る。本毀は文久3年(1863)
の春日移しとみられる。春日大社の式年造替の制(20年毎)から、天保15年(1844)造替時のものと考えられる。社殿平面や構造形式などから春日移しとされ、遠くない菅原(藤坂天神社)神社本殴と同時期の建物と考えられる。秋祭りは10月14口(宵宮)、15日(本宮)で、いまも地区住民によって受け継がれてにぎわう。拝殿が平成12年(2000)新築された。(尊延寺5丁目)

図

2.厳島神社末社春日神社本殿
"国指定重要文化財"
ながく老朽化が進んだままだったが、屋根や軒桁、破風などに後補材がみられるものの軸部や組物は当初のもので、中性在郷神社本殿の貴重な遺構であることがわかり、昭和53年(1978)国の重要文化財に指定。室町時代中期の一間社流造。この社殿は、市内交野天神社本殿と多くの点で共通する様式をもつといわれ、同大神社に関係した工匠あるいは同天神社から影響を受けた工匠によるものではないかとみられる。平成7年(1995)に解体修理が完了し、色彩など創建当時の姿がよみがえった。地域の誇りだけでなく、市民みんなの宝である。(尊延寺5丁目)

3.来雲寺
尊延山河内院尊延寺といい、浄土宗。旧集落の大半が同寺の檀家である。もとは守口市佐大の来迎寺末の融通念仏宗寺院で、来迎寺を創立(貞和3年、1347)した実尊土人が留錫したことに始まるという。境内に永禄元年(1S58)と慶長16年(1612)の2基の十三仏板碑がある。大和~正徳頃に浄土宗に改宗したという。本堂は文政6年(1823)に再建された遺棉だが、実際は大改修だったらしく、建立はそれより古い。江戸中期の手法がみられるといウ。(尊延寺5丁目)

4.尊延寺
幡山尊延寺といい、高野山真言宗。天平3年(731)に宣教大師の勅願によって建立され、12の僧彷を備えた天平伽藍様式の荘大な寺院だったらしい(『輿福寺官務傑疏』)。三之宮神社と葉、古くから密接な関係に会った。中世まで大寺院として隆盛を誇ったものの近世に入って衰退、明冶時代に入って奥之彷、池之坊、不動堂を残すのみとなった。現在は不動堂(本堂兼庫裏)と旧池之坊の諸党(開山堂、地蔵堂、大師堂)が残る。不動堂には、鎌倉時代の作と伝えられる不動明王、降三世、軍茶利、大威徳、全剛夜叉の五大明王が祀られている。また、平安時代中期の作とされる大日如来も安置されている。さらに、暦応3年(1338)の銘がある石仏の石屋形などもある。

5.旧奥之坊の不動明王立象(村島家)
尊延寺12僧坊のひとつで、現在の聖法寺(尊延寺6-8)の地にあり、大塩平八郎の乱(天保8年、1837)の際、深尾才次郎が付人を集めるのに撞いた鐘は同寺のものという。だが、明治時代初期に廃寺になった。現在調査中だが、平安時代の作といわ不動明王立像・阿弥陀如来像・地蔵立像は奥之坊跡に近い村嶋吉-氏宅で祀られており、もとは弘法大帥像もあったが他家に移ったらしい。また、同が坊には天暦3年(949)建立の十三重塔があった、事情があってなくなり大正3年(1914)再建され、昭和40年頃まで近くの茶畑に移っていた。しかし昭和62年(1987)に村嶋カブの人々によって元あった聖法寺境内一角に安置された。(尊延寺6丁目)

6.阿弥陀三尊磨崖仏(小島家)
かつてあった遍照寺跡とされ、立派な磨崖仏がある。竹林に高さ1.7メートル、幅1.6メ-トルの花崗岩が露出。表面に三尊を彫り出すための舟形(高さ95センチメートル)を彫りくぼめ、像高76センチメートルの来迎阿弥陀立像、右に観音(像高41センチメートル)、左に勢至菩薩立像がある。表情が豊かで全体的によくまとまり、やさしく上品にみえる。南北朝時代の造立ではないかと考えられている。大阪府下でも数少ない磨崖仇として注臼される。(尊延寺1丁目

7.大塩中斉遺跡碑(点保の乱記念碑)
元与力で高名な陽朋学者で知られた大塩中斎(平八郎)が幕藩体制の歪みや飢饉による庶民とりわけ農民の窮地をみかね、乱を起こしたものの破れた大塩事件。尊延寺村の深尾才次郎は、中斎の洗心洞の入門生。オ次郎はかねてから乱の計画を聞かされ、天保8年(1837)2月乱の行動を知ると奥之坊の鐘を打ち鳴らし、自家に村人を集めて「両国筋から攻めのぼる者があり、大塩先生とともに一戦を交える。加勢して勝利しよう檄文を読みあげた。村人ら総勢60人が「尊延寺村」と書かれた幟をたてて出発したが、途中大塩の敗走を知り、自らも逃亡したがやがて自害。兄の治兵術はやむなく挙兵に参加したのだが捕えられた。その他家族や参加した付人の多くが厳しい処分を受けた。治兵衛の一了・正人郎が家を再興したが昭和期に入って絶え、現在は畑地。その一角に深尾家が昭和47年(1972)顕彰のため「大塩中斎遺跡」の碑を建立した。(尊延寺2丁目)

8.圓山地蔵尊
いつの頃かち祀られたのか定かでないが、明治時代初めにはあったという。大住(京田辺市)に通じる道沿いで、一時盗難にあったが盗人の夢枕に「帰りたい、帰りたい」と懇願する声が聞こえ、地蔵尊の半身が元通り帰されたと信承されている。だから、いまも頭部がかけている。昭和8年(1933)、地元ムカイの有志が周囲を整えて屋根を設け、8月23日の盆供養を恒例行事として再興した。(尊延寺4丁目)

9.大師堂
もとは宗谷地区にあり、そのあたりに田畑があったり耕作していた人々が弘法大師を祀り、大師講を営んでいた。だが近くに養鶏揚ができて環境が悪化したため、昭和43年(1968)に尊廷寺の裏山に移転し、4軒という少ない講員で清掃など維持管理に励んでいる。(尊延寺6丁目)

10.旧中田酒造場「谷川」
枚方市東部は、近世から酒米の生産地として知られたばかりでなく、酒造りも行われてさた。田中昭導氏宅はかつて酒造場を営み、“鬼殺し”の異名で評判の銘酒「谷川」を醸造していた。だが大手酒造会社に押されるなどのため昭和54年(1979)頃廃業に追い込まれた。嘉永3年(1850)の創業とされるが、それより古く天保11年(1840)に五郎右衛門が同村字兵衛より譲り受けたとの記録がある。嘉永3年当時、交野郡には27酒造家が いて、他郡に比べ断然多いものの鋭模は小さかった。五郎右衛門の酒造米高は180石であった。大正10年(1921)時の従業員は8人だった。酒倉・什込み部屋(たて11間半、よこ5間の木造1部2階建て)に人影はないが、染や柱の太さに圧倒され、かすかに酒の香りが漂ってきそう。(尊廷寺3丁目)

11.氷室路
谷橋から集落をぬけ、上茶屋橋を経て国道307号穂谷口信号・バス停に至る約0.8キロ区間が、枚方市の愛称道路・氷室路。市が道に親しみと愛着を持ってもらおうと、平成2年(1991)10月に22路線に名付けた愛称道路のひとつ。道に沿って土蔵 や白壁の屋敷、石垣などが連なり、旧集落を貫く中心道路だったことをしのばせる。かつては田辺街道と呼ばれていたが、昭和5年(1930)に改修丁事が竣工、府道枚方田辺線となる。この際、控谷橋~穂谷口信号の区間を穂谷川左岸から右岸につけ替えた。旧街道部分が氷室路にあたる。戦後、府道枚方水口線と呼ばれたが、45年(1970)に国道307号に昇格した。なお、尊延寺集落は、古くから氷室路が通る穂谷川左岸をサト、右岸側をムカイと呼ぶ。ムカイにも静かでぬくもりのある小径が多い。

尊延寺地区の里山と貴重な植物

里山とは、今日広く-般的に使われる流行語であり普通名詞である。ところが、意外かも知れないが里山と呼ばれだしたのはそんなに古くない。1960年代半ばまで一般的“農用林”と呼ばれていたが、四手井綱英元京都大学教授が奥山に対して農家の裏山の丘陵や低山地帯の森林を「里山」としたのが最初だという。しかしその後も一般化することはなかったが、昭和58年.(1983)に社団法人・大阪自然環境保全協会(愛称・ネイチヤー大阪)が大阪府下の都市周辺部に広がる松林や雑木林からなる低山地帯を里山と呼び、その保全と野生動物の保護を提言し調査した。以後、広く市民に呼びかけて調査や自然観察の活動を展開し今日に至った。同協会は「里山とは、一般に町や村の周辺に広がる丘陵地や低山帯で、かつて水田農耕を営む人びとによって農用林、用材林、水源林などとして利用することによって形成された雑木林を指す」との見解をとり、これをもとに広辞苑第5版に「人里近くにあって人々の生活と結びついた山、森林」として収録された。  尊廷寺地区は、まさしく里山に取り囲まれた集落であり、人家の手のとどくところにあるのが里山である。ただし、これら里山の大半は入会権等権利集周が古来から守ってきたものである。(近藤  徹著『里山の管理』(社)大阪自然環境保全協会発行を参照)

貴重な植物
尊延寺地区の里山には、野ウサギなどの動物や野鳥も多く生息しているほか、多様な植生におおわれている。なかには全国的にも貴重な種もあるが、絶滅が危惧されるものもある。  まずは植物の全体像を把握し、貴重種を知ることで改めて尊延寺里山のすばらしさを見直してみよう。平成6、7(1994、5)年にかけて「尊延寺の自然を守る会」が調査した結果(西田富士夫・現牧野高校教諭まとめ「尊延寺地区里山の植物」)によると、種子植物の種は全部で68科272種。このうち希少種に限ってみると、近畿地方の保護上重要な植物(レッドデ-タブック近畿)は、すでに絶滅した可能性が高いとされるものが6種も確認された。また大阪府植物目録で「やや希」または「希」と指摘された11科14種が確認された。その多くは枚方市内で初の確認であり、大阪府下での報告例も少ないものばかりだった。

レッドデータブック記載種6種

ミスギボウシ (ユリ科)
サワシロギク (キク科)
フトイ (カヤツリグサ科)
オオアカウキクサ(アカウキクサ科)
イヌセンブリ(リンドウ科)

大阪府植物目録に「やや希」または「希」と指摘されている種14種

ミズニラ (ミズニラ科)
オオアカウキクサ (アカウキクサ科)
フトイ (カヤツリグサ科)
ミズギボウシ (ユリ科)
ウメバチソウ (ユキノシタ科)
タンキリマメ (マメ科)
ニオイタチツボスミレ(スミレ科)
ミソハギ (ミソハギ科)
イヌセンブリ(リンドウ科)
スズサイコ (ガガイモ科)
キセルアザミ(キク科)
キツネアザミ(キク科)
サワシロギク(キク科)
スイラン (キク科)

指定植物11種

ミスギボウシ (ユリ科)
ショウジョウバカマ(ユリ科)
カキラン (ラン科)
ウメバチソウ (ユキノシタ科)
イヌセンブリ (リンドウ科)
センブリ (リンドウ科)
リンドウ (リンドウ科)
キキョウ (キキョウ科)
キセルアザミ (キク科)
サワシロギク (キク科)
コバノミツバツツジ(ツツジ科)

(写真提供:尊廷寺の自然を守る会)

イヌセンブリ

ウメバチソウ

オミナエシ

カキラン

キキョウ

コバノミツバツツジ

ササユリ

サワシロギク

ジュンサイ

リンドウ

氷室(尊廷寺)歴史年表

氷室(尊廷寺)歴史年表 縄文時代11万年前 押型文士器や石鈷・石匙が使われる(穂古道跡) 831年
尊廷寺.杉に氷室が設置きれる

1490年
津田防守正信が国見山に津田城を築く

1575年
信長が河内に攻め入り、長尾・津熊・津田城を焼き払う

1582年
徳川家康が界から京都へ戻る途中、本能寺の変を知り、津田・尊廷寺村を抜けて三河に帰る

1688年
津田村と穂谷・尊廷寺村の問で津田山の所属をめぐり山論が起こる

1837年
深尾才次郎が大垣(平八郎)に加勢するため村人を率いて大坂に行く(大塩事件)

1872年
河内国第6区郷学校出張所、来雲寺に設立

1875年
澤田山の帰属につき訴訟が起こる

1880年
氷室小学校の前身、平松小学校が現尊廷寺地域集会所に開校

1889年
町村制が施行され、校方町ほか9か村が誕生する(尊廷寺、穂谷、杉村とで氷室村になる)

1896年
茨田・交野・讃良の3郡が廃止きれ、北河内郡が設置される

1898年
深尾龍三が第5回総選挙の第6区で当選、築6国総選挙(同年)で再選される関西鉄道が開通し、津田・長尾駅が新設される

1908年
平松小学校は平松尋常小学校(明治24年)、氷室尋常小学校(35年)と校名変更し、この年、現在地に新築移転

1909年
禁野火薬庫が爆発する

1910年
京阪電鉄が開通(天満橋-五条間)

1921年
津田村で小作争議起こる(その後、国に波及するが、氷室村でも争議)

1926年
北河内郡役所が廃止される

1939年
禁野火築庫が大爆発する(氷室村方面に多くの避難民が逃げる)

1940年
401氷室・津田・菅原の3村が合併して津田町が誕生する

1942年
北河内地方事務所が発足する

1942年
枚方市が誕生する

1955年
津田町が枚方市と合併する

1970年
野外活動センターが開設される

1979年
片町線四條畷一長尾間複線電化工事が竣工

1983年
枚方東消防署氷室出張所開設

1994年
市立図書館氷室分室開設

2001年
JA枚方市氷室支店跡に尊廷寺地域集会所開設

(枚方市刊『郷枚方の歴史』年表など参考に作成)